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世界初のトップウォーター専門店
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文=マツモトカズヨシ 画=山根英彦
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その店が生まれたのは平成6年の3月だ。私が前の会社を飛び出したのが3月の
未だから、そのときはすでに店が存在していたことになる。
小さな店でマメ電球の照明だから、いつも暗かった。壊れかけのレコードプレー ヤーからは、サラ・ボーンやビリー・ホリデーが聞こえていた。
看板はなく店名は表の壁にペンキで書かれていた。懐かしいような匂いが常に漂 っていた。古着の匂いだ。最初は釣り具なんかほとんどなくて山根コレクションの
古着ばかりが並ぷ店であった。
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釣り道具屋という体裁を整える程度に並べられた商品はみな、当時、山根が釣り
に出かけるときに使うタックルだった。糸と、少しのルアー。ラッキー13やルーハ
ージェンセン。トップに限っていたわけではなかったように思う。
私の仕事は、掃除だ。お客さんがだれも来ないからだ。
そんなある日、山根がヒノキの丸棒を買ってきた。「ルアーを作る」という。私は
戸惑いながらカッターと紙ヤスリを買いにいった。
もちろんふたりとも、経験などほとんどなかったから、トピードやザラの形から
削っていった。
同時に資料を集めまくつた。羽鳥さんの「気が向いたらプラグ作り」は参考になっ
た。オールドルアーの本は、当時、東京のホームラン商会で、カール・丁・ホワイ
トの「アンティーク何とか」というのを手に入れた。
でも、本当に情報がなかった。
そして、なかったのは情報だけではない。バーツもなかった。スミスのカタログ
から注文したヒ−トン類はまったく手に入らなかった。年に一回仕入れるだけで、
在庫はもたないということだ。そんな状態だったから、ショップをまわって、数個
ずつ、手に入れたのだ。フックも国内では2番サイズまでしか手に入らなかった。
しかも、HEDDONが使っているような、ロングシヤンクのフックなどは、さらに見
つからなかった。
初期の道楽作品のヒートンがカーテン用の真鍮ヒートンであったのは、カッコい
いと思ったからでもあるのだが、こういった、やむにやまれぬ事情もあったのであ
る。
木を削ると次に色の問題があった。エアブラシなど持ってもいないし、使えない。
山根が「漆でいこう」と決めた。へら屋さんでチューブの漆を買ってきた。当然、
筆塗りだ。テレピン油で薄めながら、なんとか塗りあげる。問屋で聞いた「ウレタン
フロアーM」で表面コーティングすると、色が全部流れてしまうではないか。大騒
ぎである。
それ以来、ウキ用のコーティング剤である「クリアー樹脂」なるものを使うように
なった。色は流れなくなったが、あまり硬くはならなかった。
毎日、毎日、木を削る日々。私は、そのほこりで花粉症になった。
依然、お客さんは来なかった。週に3回は店が開く前に淀川に行っていたから、
ルアーを削りながら、眠くて何回も手を切った。
淀川に行くのは、決まって山根とふたりだったが、ときにはガウディの森田さん
が加わることもあった。目的は淀川のフィールド開拓と、ルアーのテストだ。
どんなルアーでもパスは食ってきた。都会の真ん中の川でだ。いまから考えると、
この日々が道楽スタイルを築きあげた。稚拙なルアーにも、でかいルアーにもパス
は襲いかかってきた。山根はいつも「ルアーは浮いて、ハリさえ付いてたら釣れる」、
そういっていた。
ふたりで釣りをしていると、飛ばしあいの競争みたいになって、ロングキャスト
のスタイルができあがった。そうやって距離を置いたほうがパスも激しくルアーを
襲ってきた。
風の日も、雨の日も、通いつづけた。そのうち、サオに限界がきた〔当時はオー
ルドのHEDDONやFO-60なんかを使っていたが、私たちのキャストについてこれな
くなったのだ。結局、これがオリジナルロッドを作り出すきっかけになった。1オ
ンスプラグを背負ってロングキャストをしなけれはならない。風が吹いてもピンス
ポットにルアーを入れるためには、ライナーのロングキャストが必要である。こん
な芸当をこなせるサオはなかった。
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店に最初に来たお客さんは、のちに一緒にビデオを撮ることになる、プ□デュー
サーの松原さんだ。そして、次に来たのが、のちにクワイエットファンクのデザイ ナーになる久保田さんだった。当時は、トップウォーターで釣りをする人は本当に
数えられるほどであった。しかも、大きなルアーだけを使う人となると、いまだに 全員の名前がいえるくらい少なかった。そんな状況だったから、トップに関する情
報をこの店に集積させて、さらにそれをみんなに流通させることを心がけた。
みんな、同じルアーを使っていても、使い方がまったく違った。
その違いをお客さんに伝えていったのだ。当時の雑誌には、私たちの欲しい情報が 載ることはなかったし、専門の本もなかったからだ。
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初めてのオリジナル金属パーツは、山根が作ってきた2ピースリグだ。このリグ
を付けるだけでルアーがカッコよくなった。続いてシャンプーハットのパーツやプ
ロペラを作ってきた。パーツだけで随分イメージが変わるものだ。このときの印象
が強かったのだろう、いまでも金属パーツを見るとワクワクする。
ルアーはボディだけで売られていた。お客様の好みによって好きなパーツを取り
付けます、というわけだ。取り付けるパーツによって値段は違う。4800円くら
いからのスタートだった。
こうして、お客さんと一緒にプラグを組み立てていくから、たとえルアーが動か
なくても、それはお客さんのせい、って感じだ。
カスタムロッドもやるようになった渡辺釣具からブランクと道具を買い込んで、
経験もないのに最初の一本目から販売した。いま思うと、だいぶ恥すかしい。
オールドタックルも少しずつ集めだした。本物を見なければ、本物は作れない。
偏執狂的にむさぼるように見ていた。
こんなふうだったから、店ではよくしゃべった。何もなかったから、次、また来
てもらうためには、とにかく印象を残さなければと考えたからだ。山根はジーンズ
で成功していただけに勝算があったのかもしれない。でも、私は28歳でゼロになっ
た男だ。毎日、その瞬間しか生きていなかった。
そのうち雑誌に載せてもらったり、ロコミで、いくらか、まいどさんが来て<れ
るようになった。それでもルアーはなかなか買ってもらえなかった、とはいえ、こ
こに来ればトップウォーターの話ができるということで、お客さんは集まりだした。
いっしよに釣りに行ったことがきっかけで、トップウォーター・オンリーにコロッ
と変わってしまう人たちもたくさんいた。ヒヨコブランドの山科や、Teatの山
本のようなヤツらだ。彼らがルアービルダーになろうと思ったきっかけは、マツモ
ト程度のルアーなら、自分でもできると思ったからだそうだ。いま、道楽でルアー
作りをとりしきる藤原など、自分ならもっとうまくできると、客のころに思ったそ
うだ。失礼な話である。
もう、サラ・ポーンやビリー・ホリデーは聞きたくない。何もなかった日々が思
い出されるからだ。しかし、不思議と、つらかったとは思えない。現代の情報化社
会のなかで、本当にゼロからの状態でルアーを作らせてもらえる機会を得たこと、
ロッドを作らせてもらえる経験ができたことは非常にラッキーだった。山根に感謝
している。
ダンサーズ・オブ・ウォーターラインという店で作り上げた空間は、忘れてはな
らないと思う。このときに覚えた、モノができあがるときの楽しさが、いまの自分
を支えているのだから。
最後に。いい思い出として、こうやって文章が書けるようになったことを、本当
にうれしく思う。そして、当時の山根英彦は本当に怖かった。山根と私が対等であ
ったと思っているファンも多いが、とんでもないことである。
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